煙突
この東京の空は広くて高くて何処までも青かった。
一家が疎開先の石川県から東京へ戻ったのは凡そ終戦から1年余りが経って
いた。両親は江戸川区平井で天徳湯という名のお風呂屋をやりだした。
卓は5歳になった頃であった。
焼け野原となった東京の下町でここはまだしも空襲で焼け残った家がところどころ
にあった。焼失をまぬがれた木造の家々の外壁は黒々と焼け焦げたように見え
それは炭のように黒ずんでいた。焼け跡は既に戦火の傷跡も見えずきれいに
かたずけられていて赤褐色の土には草が一面に生えていた。
その原っぱは卓や子供らにとって格好の遊び場になっていた。
卓は夏の原っぱに出てよくトンボを捕まえていた。ギンヤンマは原っぱのところを
何時も周遊している。それを網をもって待ち伏せして捕まえる。
特にギンヤンマを捕まえるとその青くてふっくらとした腰に糸を丁寧に巻きつけた。
そして東京の広い高いそのトンボの腰の青さと同じ青い空に向けて飛ばした。
すると何処からともなく雌が飛来し雌雄があわただしく大きな羽をお互いに
ガサガサと音をたてて絡む。その態に卓はいつもドキドキしていた。
卓はそれにも増して最初のトンボの腰の環わりの青さに魅せられていた。
東京の空の青さを全部集約した様な青さに。寄って来るトンボはどうでもよかった。
卓には唯その青さが訳もなく好きだった。寄って来るトンボもその青さに魅せられて
来るのだろうかと卓は思っていた。
いつもの様にその原っぱで卓は遊んでいた「火事だ!」と言う声にあたりを見た。
広い原っぱに一戸だけ家がある。 新しく建てられた家であるのは明らかである。
他の家とその外壁の色が違う。あの焼け焦げた木肌が無い。白い木肌で木目が
そのまま見える新しい材木で建っている。見てると台所のガラスの奥が赤く染まった。
そして外壁と屋根の継ぎ目から煙が出始めた。「あーうん うちが燃えちゃうよー」
若いおばさんが泣きながら燃えている家のほうへ走って行った。
周囲の古い家々から人々がバケツを持って出てきて列をつくりながら水をかけ始めた。
しかし消防車は来ない。サイレンもならない。たちまち家全体に火がまわりパチパチと
音をたてボウボウと燃え出した。卓はそのさまをトンボの左右の羽を指で優しくも
しっかりと挟み見ていた。焼けた後、人々はしばらくその焼けた場にいたが又バケツを
持ってあの黒ずんだ家々に戻っていった。
夕方になると高い空にそれは天徳湯の高い煙突よりも遥かに高い空に黒っぽくもあり
濃いエンジ色でもある蝙蝠が百羽かいや二百羽か飛び交う。夕暮れの夕日に映えて
その姿が見えたり隠れたり乱舞する。今日一日の終わりのショウを空で演じてる。
暗くなってその集団ダンスは闇と共にいつとはなしに幕を閉じる。 卓はそれを無心で
いつも見上げていた。
父ちゃんが言った「卓、もっと暗くなるとこの煙突のてっぺんに電気がつくんだよ」。
卓は無言で煙突を見上げた。電気は見えなかった。唯夕暮れの空に突き上げた煙突の
太くて黒っぽい胴体だけが見えた。卓にはそれはあまりにもでっかくて掴まえ所が
無かった。
天徳湯は中川に架かっている平井橋の平井駅方向のたもとにあった。店の入り口は
道路に面していた。道路から店の横が石段で裏の家々に通じていた。そこには長屋と
家内工場とがあって卓はそこに住んでいる子供達と毎日遊んでいた。中川で泳いだ。
川の岸から飛び込んだら浅かったので胸を底にこすりつけた。胸を見ると血が滲んで
いた。コークスの燃え殻をそこに捨ててあったのだ。
また川の中に入って釣りをした。中川の橋げたの浅いところの川底を棒で掘りゴカイを
見つけ餌にした。竹の棒に糸と針とをつけただけの仕掛けを川に投げ込んだ。すると瞬く
間に糸をぐいと引くではないか?!急いで竹竿をあげるとイナダという鯔(ぼら)の
一世代前の魚だと年長者が教えてくれた。ブルンブルンの感じに何度か同じことを繰り
返して7,8匹は釣った。
橋の上から大人が叫んでいる。「土佐右衛門(どざえもん)だ!」卓は「ェ?何だろう
どざえもんて?」釣りを止めてみんなの行く平井橋の上まで走って行った。そしてみんな
がやっている様に欄干から下を見た。最初は皆が何を見ているのか卓には分からなかった。
卓には唯川面だけが目に入った。みんなのやるほうへ目を向けた。川面には鉄兜の様な
ものが浮かんでいる。それがゆっくりと川に流れている。ゆっくりと沈んだり浮いたり
している。その鉄兜の浮沈のたびに何か広がったり狭まったりしてい物がある。卓は気が
付いた「あーあれは人の頭だ。そして髪だ」卓は欄干にしがみついてその繰り返す態に
吸い寄せられていた。身体が立っていて頭だけが水面に浮き出ているのだ。その頭が
ゆっくりと上下を繰り返しながら水門の方へ流れているのだ。上下のたびに毛髪が水に
浮いて広がったり頭にくっついて狭くなったりしているのだ。どうしようも無く
唯見入っていると下駄の音がして誰かが帰りだした。卓もひんやりした欄干から手を
離し何でか淋しくなり駈足で家に向かった。
天徳湯の対面側には聖徳寺というお寺がある。その境内に大きな木がありその木の傍
には相撲の土俵が設けられていた。その夏に相撲大会がおこなわれた。卓はそれを近所
の顔見知りと一緒に見に行った。卓は相撲を見たことは無かったしまたやったことも
無かった。土を高くもりあげた土俵の周りでただ座って見ていた。
いくつかの勝負を見たところへウチワを持ったおじさんに卓は指された。他の何人かも
指された。皆が土俵の上にのぼらされた。行司のおじさんが「これから五人抜きを
行います。」と言っている。卓は相撲を見るのは初めてなのにとるなんてと思った。
土俵の上のおじさんに指されたのでやらざるをえない。卓は体はチビだった。
しかし取り始めると一人倒し二人と勝ち進み五人目となった。卓は思った「もう一人で
五人抜きだ」胸が鼓動しだした。勢いに乗ってか慣れてきたのか五人目も倒した。
行司のおじさんがすぐ寄ってきて君の名前はと聞いた「はい、卓です」するとおじさんは
言った「五人抜き卓の山の勝ち」と呼んでから棒の付いた飴をくれた。
おじさんは忙しそうにすぐ次の取り組みに移った。卓はすっかり有頂天になり土俵の傍ら
にある大木に登りだした。上に登ればあのおじさんと次の相撲がよく見えるだろうと木の
上から高見の見物と決め込んだのだ。ところが木の葉っぱが視界を遮ってよく見えない。
そこで目の前の小枝を掴み掴み徐々に身をのり出して行った。ところが掴んだ枝が
折れた。そのまま木の根本へ落下した。尻から真っ直ぐ落ちた。手には折れた枝を
握っていた。周りで相撲を見ていた人たちが寄ってきて「坊や大丈夫かい?」「はい」
一人のおばさんが言っていた「怪我しなかったのは聖徳様のお陰だねェ」。
夏も終わりになる昼下がり近くの遊び仲間が5、6人集まった。年長君が「向島へ映画
を見に行こう」と言い出した。卓は仲間の二人を良く知っていたが年長君と残りの子等に
ついては知らなかった。年長君は身体も卓よりはるかに大きくて年もずっと上に見えた。
卓は映画も向島も初めて耳にする言葉であった。ましてやお金も持っていなかった。
卓は聞いた「僕、お金持っていないよ」年長君はすぐ答えた「大丈夫だよ君は小さい
から入り口で誰か大人の人に付いていってその人の子供みたいにして入れば良いよ」。
卓には何か不安があったが行くことになった。
「それじゃ行こう」と年長君が言い皆で向島へ歩き出した。年長君を先頭に広い
道路の片側を皆でぞろぞろすたこら卓も一生懸命にくっついて歩いた。道路脇には
何にもない。家もところどころしか無い。道路は曲がっている。
一体30分か1時間かどれほど歩いたか解らない。
年長君が「着いたよ」と言った。そこは大きな建物で前は高く四角い。早速作戦どうり
入り口に行き各自別々に映画館に入って行く。卓も言われたとうりよそのおじさんの
ほんの斜め後ろにくっ付き上手く入った。中に入るといくつもの扉があり仲間の一人が
入っていった扉が見えたので急いでそこから卓も入った。扉の中は真っ暗だった。
沢山の大人の人で一杯だ。何も見えない。
大人の背中が大きくて仲間が見えない「仲間を探さないと」と卓は思った。
卓はそのことにのみ神経を集中させ人と人との間をぬいくぐりやっと仲間の塊に
たどり着いた。そこは館内の右横の鉄の棒のあたりであった。卓はその一人を
指で突っついた。その者は卓を見てうなずいた。
卓はもう安心とその鉄の棒を手でつかまえ仲間をそこに確かめながら映画を見始めた。
何の映画かは卓には全く解らない。映画は暗い空間に後ろの高い壁の穴から光が
流れ出でて前の大きい壁に紙芝居のように絵が出てきて動いている。これが映画かと
卓は漫然と見ていた。座席にはぎっしりと人が座っている。鉄の棒の側には壁に挟まれ
て前から後ろまで立っている人でいっぱいだった。その一部に我々もいる。
卓は鉄の棒を境に頭を左右に振り画面を見んと狭いところでもがいていた。館内は
汗のにおいと人いきとで息苦しい。ふと気が付くとすぐ横にいたはずの仲間が又もや
いない。暗い中で周りを見渡しても仲間はいない「え!皆何処へ行ったのだろう?」
「皆黙って帰ってしまったのだろうか?」「それとも僕が気がつかなったのか?」
「追いかけなきゃ」と卓は必死で思った。人を掻き分け内ドアを出て入り口を出た。
表に出た。皆何処にもいない。外は薄暗くなりつつある。卓は身体に館内とは違う
軽くてさらっとした空気を感じた。何度も通りを見渡すが仲間は見当たらない。
空が薄暗くなって通り脇にある数少ない家々があの炭焼けた木の外壁と同じく
黒々と卓の目には映った。何件建っているか定かではない。ただ黒いシルエット
として家々が卓には映った。行く当ても無く卓はシルエットの方へ歩き出した。
家々を何件か通り抜けた。とある1件の家にさしかかった。その家にはガラス窓あり
その中にはダイダイ色の灯りが照っている。中から大人と子供の声がする。
家族での楽しげな会話の声が外にも聞こえてくる。卓はとっさに通りに面した
知らないうちの玄関のガラス格子戸に手を架けて横におした。ガラガラと音がした。
すると家の中からおばさんが出てきた。卓はすかさず聞いた「天徳湯はどこですか?」
おばさんは「さあ、しらないねー」と答えて「坊や、ちょっと待って」と言って
おばさんは中に戻った。すぐ戻って来て「坊やハイこれやるよ」と新聞紙に暖かい
薩摩芋をひとつ包んでくれた。
卓は「ありがとう」といって暫く其のあったかみを手で感じていた。そして一口二口
と食べはじめた。口の中にほのかな甘さを感じた。食べながら遠くの空を見た。
既に真っ暗であった。空一面星空であった。それでも広大な星空を背景に地上の
より黒い塊が所々に点在しているのが分かった。卓は一瞬食べるのを止めた。
そうだ煙突を探そう。父が言っていたあの煙突を。その上に電気がついている煙突を!
卓は目を凝らして暗い星空の地平から煙突の形を探し始めた。瞼をより大きく開け
頭を止め又次の煙突へと探した。数本の煙突を過ぎて丁度パノラマの真ん中ごろに
射しかかった煙突の上にかすかに光るものが目に入った。卓は恐る恐る「あれかな?」
と思った。更に残りの方面を見渡した。煙突はあったが光は無かった「やっぱりあれだ」
卓は心が震えた。そして心の中で呟いた「あったぞ あったぞ」と。
卓はかすかに見える道を光る煙突に向かって歩き出した。歩きながら何度も煙突
を確かめた。遂に目の前に煙突が星空に向かって光を放ちながら堂々と立っている。
風呂やもここだ。平井橋をわたり駆け出した。天徳湯の店の下駄箱で母ちゃんの声
が耳に入ってきた「いらっしゃいませ、ありがとうございました」。卓は入り口のガラス戸
をあけた。そこはお客さんでいっぱいであった。湯上りの人々から石鹸の香りが鼻に
漂ってきた。高い天井の電気がこうこうと照っていた。卓には眩しい光であった。
洗い場の桶の音が響いていた。母ちゃんは脱衣場の竹の籠をかたし積み重ねて
いた。重ねるごとにきしむ音がしていた。卓は母ちゃんの傍へ行って母ちゃんと言い
ながら身体に触った。
母ちゃんが振り返った「あっ卓どこへいっていたの。こんなに遅くまで。みんな
心配していたよ。」
卓は「ん」といったまましばらくの間黙って母ちゃんの傍に立っていた。
完
鍋島卓 作
2004年2月16日
2004年2月25日 改定