母の死


母が入院したと父から連絡があり先ず妻に東京町屋の病院へ行かした。体調不全で肺
炎を併発した模様でベッドにて点滴を補給されつつ寝ていた。1週間か10日ばかり
で急に悪化して帰らぬ人となった。

亡くなる3日前ぐらいに見舞い行ったがあまり意識も無いようであったが声をかけると
かすかに反応して笑みが感じられた。その後危ないと電話があって妻に再度
つきあわせたが翌朝に他界した。家に付き添われ横たわっている姿を見て私は泣いた。

御通夜、葬式を2月の寒い日に行った。近所や親戚や私の会社から沢山の弔問客が
寒空につめかけてくれた。ご愁傷様です。この言葉はえも言えず心の何かが、どこかが
空洞化した様を癒そうと願う意思がある。

その後会社に出て弔問者に挨拶を行い席に座るが、なかなか母の死から逃れられない。
いつまでも愁傷の念が噴出してくる。




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前もって計画していた名古屋への出張の日取りが近い。名古屋の担当者に行かせる
ことも頭に浮かばず自分で行く。やはり上手く商談も行かずに帰る。

そうこうしていると9月にアメリカへ出張旅行2週間となる。懸案のプロジェクトは
担当課長がやっているのでそのままにしてアメリカへ行く。
英語は35歳ごろから意を決して夜間の巷の英会話学校へ通っていたからさほどの
不安もなかった。元々英語には日本人特有のコンプレクスがあった。

その頃に新コンピュータ言語として仕様書言語と言うものが出現すると言われだした。
それは皆英語で記述すると。こうしてはいられない。英語コンプレクスをクリアして
おかなくては。と思いきや即新聞を見て巣鴨の修和という学校に電話して今日からと
言うことにして予約をした。

当時会社ではそこらじゅう耳を張り巡らしている奴がいて俺が夜にどっかに行くと役員に
通報してこの計画をオジャンにしていまおうと役員と一杯飲もうと誘う。
しかし夜8時に学校に行くと学校へ言ってあるので7時ごろに用事がありますと言って
難を逃れる。

学校へ行く。受付兼校長そして入学生徒のレベルテストの人からヒアリング試験を受
ける。50点行ったらと思ったが全く低かったみたいだ。校長氏曰く皆さんが大体こ
うですね。そうなんだと思いそのまま授業を受ける。先生は若いアメリカ人かスタイ
ル、顔が良い。格好が良い。口も横に切れていてしゃべっている口元も良い。兎に角
週3回夜各90分ほどの英会話の勉強を開始。教科書がとても面白くその会話の実に
面白い。嬉しくなってくる。 

仕様書言語が出現すると言う時代に対応すべく英語を習得するという本来の動機をす
っかり忘れ会話に没頭する。当時はちまたに英会話喫茶と言うのもあって時々出かけた。
英字新聞をとって時事単語を習得したりFENラヂオをきいたりホテルのロビーにいって
外人に英語で話しかけて満足していた。

しかしながら仕様書言語も一向に具体化せず絵に書いた餅の如しであった。その行き先は
不明なり。英語だけが残った。会社では各部が売り上げ拡大のため本来持っていた部課
名から逸脱して色んな業務を担当できるようになっていた。私のところでも然りで
あった。私も部長職であったので課長以下にアサインされた業務を担当させていた。

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私がほんの2週間アメリカ旅行をしている間に課長は客先からのクレーム処理に上手
く対応できずその業務を受注した営業部長に言われるままにその業務の担当を放棄さ
せられてしまった。私が帰国した日に家にその営業部長から電話があり翌日会社に来
て欲しいということであった。その日は日曜日だが時差ぼけを押しやって出勤した。
会社には誰もいないが大会議室で営業部長、担当課長そして協力会社のエンジニーア
達が会議をしていた。営業部長が部屋から出てきて私に今日は帰っていいからという
ので帰った。月曜日に出社して一通りの顛末記を聞いて異なる階にいる役員のもとへ
帰国の挨拶に行った。彼曰くアメリカまで電話をしようかと思ったのだけどね。

こうなったのだからやむをえない。橋幸夫みたいな無表情な担当課長は管理するのはごめ
んだと思った。これ幸いだとも思った。鉄鋼、ケデデKDDをもよその課に渡し私は新
規事業部長に配転された。そこも12月のボーナス期前に配転されて役員付となって
協力会社の信用調査表を整理してデータベース化して欲しいという特命を受け資料整
理、分析と試験プログラムを当時新しいdbaseを学習して自分のパソコンで立ち
上げた。

この頃から会社を辞めることを考え出した。dbaseはさほどのソフトウエアでは無かった。
しかしながら1980年代半ばから将来につながるものが静かに進んでいた。
それらはSQL、その標準化(米)、JAVA、C++、Oracle Empress等
私の知的興味を引き付けるには充分であった。1986年暮れに於いて私の慣性にた
どり着いていなかった。

あー何たることや。もしSQLでもたどり着いていたならば会社を辞め一人こんな冒険は
しなかったに。新しいトレンドに関しては相当に神経を尖らしていたのに。
辞めなければ優雅に仕事と新技術の習得にいそしめたのに。辞める前にあるメーカの
営業の相当偉い人が言ってくれた。会社もすぐ変わるからと。それは人事面であった。
歴史的に観てほんのこの後2年が技術的にその後の20-30年を制する期間であった。

若いメンバーと話をし個別に育てるのが大好きであった私が橋幸夫ばりの課長以降
部下一切嫌いになった。プロジェクトの躓きと部下なし一人40台中年そして糖尿病。
今思えば人生の中休みと思えば済んだことであった。

厚生年金、健康保険、企業年金もことごとく頓着なしに自まいで行く苦労の始まりであった。

完 
鍋島卓 作 12月27日2003年