疎開の事


昭和17年4月生まれなので昭和20年3月の東京大空襲は私が3歳になったころだ。
戦火を逃れる為おふくろの背中に負んぶして背の低い鴨居に頭をガーンとぶつけたのが
私に残存している記憶の出発点である。

焼けた近所の光景を後にして石川県へ向かう疎開列車に乗る。身動きが出来ないので
小便をするにも窓を開けてそこから外へ向けてさせてもらった。そんなことに誰もが
無頓着であった。

石川に着いてからおふくろの母の葬式があった。丘のようなところにあったお寺へ行って
樽にしゃがませておばあさんが入れられて地中へ埋葬された。(座棺)おばあさんの名前
は”くま”さんという名で母が言うにはそれをうらんでいたそうな。
(叔父に聞くとその場所は石川県佐野寺-真言宗という)
因みに母の名前は”はる”で多分”くま”さんがつけたのではないかと思う。

その寺で遊んでいて皆がいなくなったのでどこか部屋にいるのであろうと障子を開けると
そこはお坊さんの家族が食事をしているところで君の部屋はここじゃないよとつっけんど
に追いやられたのを思い出す。

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ある家の2階に皆で夜ねていた。すると砂利道をすごい音をたてて馬が荷台をつけたまま
暴れ走ってきた。 翌朝聞いたら馬が結わいておいたたずなを切って逃げたという。

又夜にあけてあった窓からすずめが家に入ってきて父が手ずかみで捕ったことがあった。
鳥は翌朝逃がしてやった。

家の前は川で二階の屋根を滑り落ちた。水は少なかったので大事に至らなかった。

母が川の水を使って人参を洗っていた。傍には荷台をつけた馬がいた。母の人参を洗うの
ばかり見ているのに飽きたのかその馬の尻尾を掴んで引っ張った。
馬はびっくりして後ろ足を蹴りあげた。母は驚いた。 私は平静であった。

時々まだ若かりし母が人参を洗っている姿を思い出す。
父も母ももうこの世にはいない。

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20年後 大学も半年で卒業の夏にふと思い立って父に石川県に行ってくる言い何処へ
行ったら良いかと聞いて新宿から電車に乗った。輪島からバスに乗り奥能登の町野町に
着きそこから母の姉が住んでいる家を訪た。夏の祭り切り子を見たそして東京から来た
人ということで歓迎され是非切子を担いで下さいと言われ風邪をおして担いだ。
大変重いものだった。 何日か滞在をして珠洲市周りで帰る。

途中富山で隣に座った女性に薦められて鱒寿司の駅弁を食べた。彼女は弁当を作る
工場で働いているといった。 真向かいの座席に座った老夫婦に訪ねられた。
あなた達はご夫婦ですか? 私は一瞬答えにつまった。彼女は答えた。いえちがいます。
彼女は新小岩の兄のところへ行くという。 上野に着いてその兄が迎えに来ていた。
富山からずーと席が一緒だった人ですと紹介されて私とその兄とは軽く会釈をし二人は
列車から降りた人々の雑踏の中へ消えた。

ホームでは“上野ー上野ー”としきりに連呼していた。私は人影が疎らになったホームへ
歩き出した。
歩きながら疎開のとき父が小さなキリコを玩具がわりにつくってくれたのを何故かふと
思い出した。



鍋島卓 作
12月30日2003年
12月31日2003年 改定